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創立130年に向けて、母校のさらなる飛躍をサポートする !!

リレー連載 世界に広げよう!同窓生の輪!

   

高校生だったあの頃にはいろいろな思い出がたくさん詰まっています。そんな1コマをみなさんに紹介していただくコーナーです。

 第1回 高30回 石井 徹さん  第2回 高20回 郡司孝夫さん  第3回 高31回 小川隆司さん
 第4回 高29回 荒井久仁夫さん  第5回 高47回 中島迂生さん  第6回 高32回 福嶋規子さん
 第7回 高33回 椎塚俊裕さん  第8回 高34回 山村 尚さん  第9回 高32回 宮本順紀さん
 第10回 高33回 椎名健司さん  第11回 高67回 阿片華子さん  第12回 高32回 松村秀徳さん
 第13回 高44回 中川敬補さん  第14回 高44回 西塚元也さん  第15回 高44回 山脇帝人さん

第15回 高44回 山脇帝人さん 「箱根サイクリング旅行の思い出」

 

 当時の私は、勉強に没頭するでもなく、部活動に打ち込むでもなく、燻っている高校生でした。そんな高校生でしたので、思い出といっても美しいものはなく、胸を張って披露できるものはないのですがご容赦ください。

高二の冬休みに、同級生4人で箱根にサイクリングに行きました。自宅から箱根は片道約150km。これを早朝スタートして夜に箱根の宿着という強行スケールでした。私はサイクリングに無知で、通学の延長で行けると甘くみてスリムジーンズをはいて臨みました。動き易いジャージでも厳しい道のり、私の太腿と臀部は一瞬で悲鳴をあげたのを覚えています。とにかく道中厳しかったのですが、何とか1日目の目的地である箱根湯本の駅に到着。自転車を置いて宿に泊まりました。2日目は山頂の箱根彫刻の森美術館を目指して、再び自転車で山登りです。天下の険と称される真冬の箱根山を、スリムジーンズとTシャツ一枚という姿で何とか登り切りました。汗ダクの私達は、「凍結注意」と表示された山頂の電光掲示板の下、自販機でホットコーヒー(真冬なので冷たい飲み物が無かった)を買い、並んで飲んだのを覚えています。その後、彫刻の森に行き、記念に置物(オブジェ)を購入。それから山を下りました。一気に下ったのですが、自転車での下り坂はペダルを踏む必要がなく、スリムジーンズでも実に爽快だったのを記憶しています。

現在、私には高校生の息子がいます。偶然なのか必然なのか、息子が高二の冬休みの同じタイミングで、友達と箱根にサイクリングに行きたいと言い出しました。母親は受験の大事な時期に…と怪訝な表情を浮かべていましたが、私は少し嬉しい気持ちでした。恐らく無意識で、息子に箱根サイクリングの話をしていたのかもしれません。家族で話し合った結果、「スリムジーンズはN G」と助言し息子を送り出しました。きっと一生の思い出と友情を育んできたのではないでしょうか。

最後に、箱根彫刻の森美術館で購入した置物(オブジェ)ですが30年以上経った今でも我が家のダイニングテーブルの上で力強くポーズを決めています。



第14回 高44回 西塚元也さん 「不真面目な私の高校時代の思い出」

 

高校時代の私は不真面目な生徒でした。授業中の記憶もほとんどないくらいに。それでも、すっかり中年となった今でも、ふとした瞬間に思い出すシーンがいくつかあります。  

自転車通学。学校まで12,3キロの田んぼや川べりを通っていくのどかな通学でした。ときどき土手を、学校から遠く離れ、見渡しても誰もいないところまで走り、太陽に照らされる草の上に寝転び、草の匂いの中で母の作ってくれた弁当を広げていました。いつもなら学校にいるはずの時間。ただ土手の上にいるだけで、自由の喜びを感じていました。それと同時に社会の枠組みから外れることへの恐れのような感覚を持ったことも思い出します。

英語の授業中。なぜか、暇を持て余していた私は机の上にあった余り紙で紙飛行機をつくり、出来栄えを試そうとそっと飛ばしました。ほんの数センチ先に落とす予定だった紙飛行機は、なぜか気流に乗り高く舞い上がり、黒板の方へ。黒板横のロッカーに着地するかと思われたその矢先、ゆるやかに左旋回し、先生の前を悠然と通り過ぎ、教壇の上にふわりと着地。紙飛行機が着地するまでの時間が、無音のスローモーション映像として記憶されています。普段は温厚な川口先生に出席簿の角でゴツンと。その一撃は非常に鋭く、コンプライアンスの厳しい今では問題になっていたかもしれない。いや、なっていないか。

放課後。陸上部をクビになった私は、毎日、友人の家に学校帰りに寄っていました。音楽の好きだった友人に洋楽を教えてもらったり、麻雀をしたり。帰ってこない息子を心配し、母親が迎えに来たこともありました。友人の母が私の母親に私に変わって頭を下げてくれたことも覚えています。その友人は先日、病で亡くなり、葬式で飾られた幾枚かの写真には、まだ若い私たちが写っていました。その笑顔は高校時代のままでした。



第13回 高44回 中川敬補さん「母親との弁当バトル」

 

今から、35年くらい前の話です。高校時代の最大の楽しみは昼の弁当でした。自宅の取手市戸頭から竜一高まで往復40キロ+放課後の部活(剣道部でしたが2年の途中で辞めてしまいました。当時顧問の清水先生すみません)で約2時間の稽古。腹が減ることこの上なく、昼の弁当が生命線でした。母親の作ってくれる弁当はソフトボール大の特大おにぎり2個と大量のおかずでした。しかし、母親が作ってくれる弁当のおかずがほとんど同じ。日替わりの1品と「市販のミートボール」と「卵焼き」が必ず入っていました。
私「毎回、ミートボールと卵焼きが入っているから、おかず変えてよ」
母「こっちは、朝早く起きて、弁当を作ってんのよ。文句があるなら、自分で作れ!」
私「分かったよ。自分で作るわ」
当時を思い返すと、母親のありがたさを微塵も感じず、自分勝手な要求でした。料理にはちょっと自信がありました。でも、それは休みの日にちょっと、自分の好きなものを作る程度でした。
それから毎朝、自分の弁当作りが始まりました。自転車で家を出発するのが午前6時40分なので、6時に起きて弁当作り。メニューはサンドウィッチでした。とにかく、量が大事で、簡単に作れるもの。前日にゆで卵3個を仕込み、朝それをマヨネーズと合えた、「タマゴサンド」でした。量は「食パン6枚切り一斤」。店で売っている袋にそのまま詰めて、学校に持っていきました。
その弁当を友人に見せると、量に圧倒されて、ちょっとした話題になった記憶があります。
 ですが、その翌日も、またその翌日もサンドウィッチ。もちろんタマゴサンド。自作の弁当が、結局同じもの。母親に啖呵を切ってしまった手前、すぐには止められず。その弁当は1週間、続きました。その後、見かねた母親がまた、「市販のミートボール」と「卵焼き」が入った弁当を作ってくれました。
 今思うと、毎日弁当を作る大変さを分かっていなかったと思います。母親が作る弁当のありがたみが、初めてわかりました。
このリレー連載をきっかけに、自分でパン一斤分のサンドウィッチを作ってみました。とても、1人では食べきれません。その当時を思い出すと、我ながら「よく食べていたなあ」と感心しました。サンドウィッチは家族(妻、子供2人)においしく食べてもらいました。



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第12回 高32回 松村秀徳さん「学帽とともに」

 松村さん

通学風景の中で、学生服姿を見ることが少なくなった。そんな中、母校の変わらぬ制服を目にすると、何かほっとしたものを感じる。自分の高校時代も当然のように黒の学生服(龍の模様の釦つき)であり、黒の学生帽子まで被っていた。そしてこの帽子とともに高校生活が始まった。北杜夫さんのどくとるマンボーシリーズを読むと、旧制高校の学生が帽子に味を出すために石で擦ったり汚しをいれたりする場面が出てくる。さすがにそこまでする勇気はなく、おとなしく帽子を被り、「石段登る六十余」と歌われた石段を踏みしめて教室へ向かう毎日だった。帽子を被る生徒が少なかったせいか、野球部の先生に頻りに褒められた記憶が残っている。非常に怖い先生だったので、より鮮明な記憶である。そんな帽子を、朝の通学時に常磐線の列車とホームの隙間から落としてしまったことがある。時間がなかったので帰りに取りに行くと、なかなかいい味がついてしまっていた。原形はとどめていたのだが、何本もの列車の風圧で擦られたらしく、裏地はぼろぼろ、鐔には深い傷が入り、表面もいい加減にへたっていた。思いがけず「新しい」帽子を手に入れ、卒業するまでこの帽子とつきあうことになる。よく「○○生としての誇りを……」ということが言われるが、二匹の龍が象られた校章つきの学生帽子がそれを感じさせてくれた。帽子を被ることで気合いが入り、いろいろなことを乗り切れたような気がする。

松村さん

第11回 高67回 阿片華子さん「竜一生の思い出」

私が竜ヶ崎一高に入学したのは6年前です。今思い返せば、ひたすら勉強をしていた記憶しかありません。そんな勉強尽くしの竜一時代のなかでも、楽しかったことを思い出してみようと思います。

阿片さん

一つ目は、「白龍祭」です。1年生では数少ない飲食を勝ち取り、2年生では嵐が大好きな担任の先生のために“vs嵐”を模したセットを作りました。そして3年生では再び飲食を勝ち取り、ポップコーンマシンを借り、プーさんのクラスTシャツを着て、“ハニーハント”を開きました。今思い返すと、かなりインスタ映えを狙える出し物だったと思います。教室にジェットコースターを作っているクラスもあり、白竜祭も日々進化しているように感じます。竜一生の創作意欲、そしてクオリティの高さは素晴らしいです。

二つ目は、「体育祭」です。球技祭から体育祭へと名称が変わったのも、私が高校3年生のときでした。この年から、学年の垣根を超えて縦割りのチームで戦う組対抗の競技も生まれました。3クラスが合わさった120人もの大きなチームで行う応援合戦には、かなり苦戦した記憶があります。しかし、教室で共に勉強するクラスメイトの、また違った活躍を見ることができるのが体育祭の醍醐味です。文武両道を掲げている竜ヶ崎一高ならではの、全力で白熱した戦いは私の一生の思い出です。

そして三つ目は「部活動」です。私は伝統ある竜ヶ崎一高バレー部で、3年間マネージャーとしてさまざまな経験をさせていただきました。白幡会館で他校と合同合宿をしたり、関東大会に連れて行っていただいたり、選手の活躍を間近で見ることができ、とても充実した部活動でした。近年男子バレー人口は減少しており、私が在籍しているときもなかなか部員を増やすことができず、少数精鋭で戦っていました。これから入学する皆さん!竜ヶ崎一高にはたくさんの素晴らしい部活動がありますが、男子バレーボール部にもぜひ足を運んでみてください。私はここで、バレーボールをやる楽しさ、そして観る楽しさを改めて感じ、大学でもバレーボールを続けようと決めました。勉強だけではなく、ぜひ部活動にも全力を注ぐ高校生活も素敵ですよね。

最後に現役竜一生のみなさん。コロナ禍となり、なかなか今まで通りにはいかないことが多くあるかと思います。私が楽しい思い出として語った行事の数々も、部活も満足にできない状況にあるのかもしれません。ですが、未来はきっと明るいです。大変なこともあるかと思いますが、こんなときだからこそ日々の高校生活のなかにある良いこと、楽しいことを見落とさず、充実した3年間を送ってください。皆さんの未来が明るく、輝かしいものとなりますように!


第10回 高33回 椎名健司さん「道場の思い出」

高校剣士にとって、道場とは文字通り血と汗と涙の染みこんだ青春時代の象徴と言えるでしょう。高校生活の多くの時間を過ごした場所であり、仲間との絆を深めた場所です。教室での思い出よりもはるかに多くの思い出が詰まっているようにも思えます。私も例外ではなく、高校時代の思い出は剣道部の活動と毎日汗を流した剣道場です。また、卒業生にとってはいつでも「帰ってこられる場所」なのです。私は、新設の伊奈高校に剣道部を創設し、高校時代にはライバル高であった藤代高校では12年間監督を務めましたが、毎年合宿やOB会では卒業生を迎える立場でした。卒業生はどんなに剣道から遠ざかっていても、一歩道場に足を踏み入れると昔話に花を咲かせ、稽古をすれば心地よい汗を流していきます。「剣道って素晴らしいなあ、道場っていいなあ」と感じる瞬間です。

剣道部

私達33回生の剣道部員は3つの道場で稽古した唯一の学年です。入学時から1学期間は先輩方が築き上げてきた伝統を感じさせる道場でした。隣の柔道場には、東京オリンピック柔道中量級で金メダルを獲得した岡野功氏の写真や「祝オリンピック優勝」という垂れ幕かけられていました。春休みから稽古に参加させて頂いた私は、暗くて恐ろしいイメージが先立っていましたが、案の定入学してから1ヶ月間は先輩方に中学校の剣道部との違いを徹底的にたたき込まれました。「常識で考え、言われる前に行動しろ!」指導者の立場になっても常日頃生徒に言い続けてきたことです。学生時代にとても良い指導を受けたと感謝しています。

当時の稽古は剣道の特性を生かし短時間に集中していました。当然時間が短い分、内容はとても濃く非常に激しいものでした。柔道部との仕切りの壁は、弾力性があったおかげで先生や先輩方の強烈な体当たりで飛ばされると、気持ちよいほど跳ね返ってくるのです。当時の先輩方もその様子が楽しくて私たちを壁にたたきつけていたような気がします。しかし、気持ちの良さも一歩間違うと鉄製の防具置き場に激突し、目から火花が散ったり、とにかく痛い思いをした記憶があります。

夏休みに入ると、新体育館の完成に伴い、今では取り壊されてしまった旧体育館へ移り、その半面を道場として使用しました。この道場で現役時代のほとんどを過ごしたわけですが、バドミントン部との共用で、夏場は風通しが悪く蒸し暑さに苦しみ、冬場は厳しい寒さのため汲み置きしておいたバケツの水が凍ってしまうような悪条件でした。また、わずか3名の1年生で旧体育館の半分を毎日雑巾がけするのはなかなか苦痛であり、雑巾がけのおかげで足腰が鍛えられたことも事実ですが、とにかくやたら広く感じられました。「早く2年生になりたい」と当時は毎日カレンダーに印を付けていました。さらに道場が広くなった分連続の打ち込みや追い込みなどそれまでなかったよりハードな稽古が加わり一段と稽古内容が充実していきました。合宿やOB会では基に立つ先輩方の多さに圧倒され、一層道場の広さを恨めしく思ったものでした。気の抜けた稽古をしていると先生への「道場1周切り返し」で腕が上がらなくなり、目から汗が流れ落ちてきたことも今となっては笑い話です。

また、私達33回生には忘れられない学校行事の思い出があります。それは関西方面への修学旅行です。帰りは台風直撃を受けて京都半日コースをキャンセルし、朝早い時間の新幹線に乗りました。名古屋の手前の駅ではない場所に長時間停車し、食料もなく空腹の上、窓の開かない状態でエアコンも切られ9月の暑さにもがき苦しみました。8時間遅れで東京駅に着いたときには常磐線の最終はなくなっていました。結局自宅に着いたのは3時頃だったと思います。それでも翌朝、といっても3時間後ですが、朝稽古のために登校すると、道場の周りの木々がなぎ倒され、道場の屋根が見事に吹き飛んでいました。さらに窓ガラスは割れ、ガラスが床中に飛び散っている光景が飛び込んできました。結局朝稽古は掃除で終わりました。なんともすさまじい思い出です。

2階建ての道場が完成したのは私たちが3年生の夏、引退した後でした。この道場には先輩として非常に気楽な気持ちで足を運びました。また、教員になった初任校の伊奈高校剣道部の創設期に何度も合同合宿をさせて頂き、充実した稽古ができました。残念なことにこの大切な道場は平成13年秋に焼失してしまいました。しかし、このような逆境の中でも、剣道部OB会の底力は素晴らしいものがありました。学校のバックアップはもちろんですが、OB会会長を中心として県への陳情を行い、1年余りで新しい道場の完成に至りました。また多方面への働きかけと募金活動により全国から多大な支援を頂き、失われた剣道具や木刀等を現役部員に贈ることができました。これも同じ道場で青春時代を過ごしたという大きな財産が同窓生の強い絆になっているのだと実感しました。平成15年に竜ヶ崎一高剣道部創部50周年と併せて新道場の道場開きが盛大に挙行されました。

新道場完成から17年が経過した現在、剣道部OB会では毎月2回(第2・第4月曜日)にOBの合同稽古会を実施しています。明るく日当たりの良い道場は私たちが入学した時の暗いイメージとは全く違いますが、現役の剣道部員が汗を流して一生懸命稽古に励む場所であることは変わりません。私も卒業後40年が経過し、まもなく定年を迎える年齢になりましたが、高校時代の道場の思い出はかけがえのない私の財産です。一人のOBとして、後輩たちがこの道場で素晴らしい思い出を作り、竜一高剣道部に新たな1ページを築いてくれることを心から願っています。


第9回 高32回 宮本順紀さん「演劇クラブ」

令和2年1月25、26日に静岡県富士市で関東地区高等学校演劇研究大会が開催されました。 茨城県からは牛久栄進高校と竜ヶ崎二高が県代表として参加しました。両校の作品とともに他県の作品も 観劇させていただきましたが、高校生演劇のクオリティの高さに圧倒され、感動しました。 高校生だからこそできる劇の独創性、美しさ、あふれるエネルギーを感じることができました。 そして、自分も高校生の時、演劇クラブに所属していたことを思い出し、古い写真を探してみました。

演劇クラブ

私が竜一に在籍していた頃、竜一には部活動としての演劇部はありませんでした。当時はクラブ活動の時間があり、 その延長線上で活動していたと記憶しています。ですから、他の部活と兼ねて参加しているメンバーが大半だったと思います。 私も地学部に所属しながら、2年生の時に同級生の清水君や野月君とともに演劇クラブに加わっていました。 一つ下の学年は女子ばかりでしたが、中には卒業後、仲代達矢の無名塾に入り、NHKのテレビドラマにも出演した 清水泉さんがいました。演劇のことは全く分からないメンバーばかりでしたが、経験のある一つ下の山崎玲子さんが 中心となって発声練習などをしていました。顧問は藤沢先生で、先生は大道具も自ら制作に当たっていただいていました。 脚本については、原作をもとに脚色を担当していたのが同級の野月君でした。

当時は文化祭が秋に開催されていました。一般公開の白龍祭は3年に一度で、校内の文化部の発表の場という趣旨の 一般公開しない白幡祭が白龍祭のない年に行われていました。演劇の公演は文化祭の場を使って、旧体育館で行っていました。 どれだけの人に公演を観に来ていただいたのか記憶に残っていませんが、2年生の時には、ジュールの「にんじん」、 3年生の時には、作品名は覚えていませんが、メチルアルコールを飲んで目が見えなくなる高校教師を清水君が演じた作品を 演じました。原作は太宰治だったのではないかと思います。私ももう一人の高校教師の役を演じていました。 受験のある3年生の秋でしたので、台詞を覚えるのが大変でした。しかし、カーテンコールがあったときの幸せな気持ちは 忘れられません。

振り返ると,藤沢先生のお人柄に引き寄せられて集まっていたのではないかと思います。

高校時代のアルバムを引き出してきて演劇クラブの写真を4枚みつけました。3年生の時は普段のメンバーの他に、 手伝ってくれた生徒が何人かいて、集合写真が残っていました。振り返ると、藤沢先生のお人柄に引き寄せられて 集まっていたのではないかと思います。脚本担当の野月君が写っていないのが残念です。藤沢先生を始め、他の方々の 許諾はいただいていません。写っている皆さんにはお許しいただければと思います。卒業後、お会いできた方もいますが、 お会いする機会がない方もおります。藤沢先生には数年前に32回卒の同窓会にご出席いただき、とてもうれしく思いました。 この写真が撮影されてから約40年を経ています。どなたかとお会いできる機会があればと思っています。


第8回 高34回 山村 尚さん「在学当時をふりかえり」

在学当時をふりかえり

今回の執筆依頼を受け、高校在学当時を今改めてふりかえり
思い出を掘り起こしました。

竜ヶ崎一高、いったいどんな学校なのだろう。
不安と期待をかかえ41年前の昭和54年春、合格発表日を迎えた。

合格発表日、仲の良い友人が竜一在学中の先輩に胴上げをされた。
「えっ!!高校合格でも胴上げなんてやるの!」
それだけ重みのある高校に入学したんだ と改めて認識した。

入学式後のクラス発表、みんな緊張、声もかけづらい雰囲気の中、
周りにいる輩の風情、風格を横目できょろきょろと見渡したことを憶えている。

女子が少ないな~ 隣の同級生に確認すると学年で女子は三分の一。
元々男子校だったことを考えれば「そうなのか~」と自己解決。
気を取り直し、しげしげとさらに周りを見てみると、
少ないながら才色兼備な女子の多さに感激。

授業も始まり合間の休み時間。大半の女子が席を立たずに何かしている。
 「なにしてるの?」声をかけようとすると
冷たい目で 「みればわかるでしょ」 との訴え。
 「えっ!!勉強してる」
この時受けたインパクトがいまだに脳裏に焼き付いている。これぞ竜一か。

1年生時の夏が訪れ高校野球が盛り上げをみせた。
甲子園出場をかけた明野高校との決勝戦。
事態を半分理解できぬまま、流されるままであったが、
吹奏楽の一員として応援に参加した。
高校生になると勉強以外でこんなイベントもあるのか。
改めて高校生になれたことを実感した。
在校生、多くの卒業生が球場に集まり一丸となって応援したことを思い出す。

 年4回の定期試験。義務教育時の年6回より少なく、期末時の
テスト休みもありラッキー と思う反面、いざ試験勉強を始めてみると
試験範囲の広さに四苦八苦(特に歴史の暗記)。この記憶が今も鮮明に残っている。

昼食は六十余の石段を下りた浪川商店の校内販売、持参弁当が基本であるが
たまに学校を抜け出しては校外に食べにいった輩もいたような記憶が・・
2,3年生になり学校生活に慣れてくると教科書を机に立て
 「早弁してるぞー」 を暗に訴える級友もちらほら。 

このような同級生たち、「まじめなやつばかり」という先入観を裏切り
遊び心満載で人間性豊かな面面だった。
やるときはやる、遊ぶときは遊ぶ(遊びすぎもたまにあるが)
こんな人間チックな同級生たちばかりだった。

一方、先輩、後輩たちとの交流。
在学当時、何度かの入退部があったものの吹奏楽部に所属していた。
吹奏楽部では、今なお卒業生が盃を交わすOB会が定期的に行われ
私も参加させていただいている。
年代、世代をこえた交流の場で回を重ねる度に新しい出会い、
絆が生まれている。

在学当時は吹奏楽然り、麻雀というコミュニケーションツールでも
先輩後輩との仲間意識、絆を深めていった記憶がある。

都内に就職し、サラリーマンをしていた時期、
赤坂にある健保組合のレストランにいった時のこと、
そこで働く(バイトではあるが)女性から「龍ケ崎のかたですか?」
と声をかけられ
よくよく話をすると竜ヶ崎一高の卒業生。飲み物のサービスをいただいた。

また、別な場面では、
 「都内の○○で会社やってんだけど○○で困ってんだよなあ」
 「そっかあ。何かあったら連絡して」
との連絡先交換。

初対面だが同じ卒業生との信頼関係から
 「○○やる人がいなくて、困ってる。やってもらえない?」
 「よっしゃ。わかった」と
学校関係の要職を依頼され承諾。

多くの卒業生、諸先輩方が日本全国におり、活躍し、そして強い仲間意識を持つ。

在校当時は全く感じることがなかったが
卒業後の何十年間で世代を超えた卒業生同士の仲間意識、絆を感じることが多々あった。

昨今、都内のサラリーマンを引退し市に関わる仕事に就いた。
市役所を訪れた際、中学、高校の同級生を探すが高校同級生が見つからない。
市役所の中では「空白の年代」と言われているようだ。
しかし、市内小中学校、高校を見渡すと数名いることがわかった。
なぜか安堵。

何故、年代、世代を超え、竜ヶ崎一高卒業生の仲間意識、絆がこれほどまでに強いのか、
明確な答えは見つかっていないが理由はともあれ、
この気持ちをこれからも大切に持ち続けたい。


第7回 高33回 椎塚俊裕さん「試合終了のサイレンが鳴り響く!」

試合終了のサイレンが鳴り響く

※当時の写真ではありません

ウーー
試合終了のサイレンが鳴り響く!
伝統の「R」一文字のユニフォーム
竜ケ崎一高ナインが小躍りして勝利の喜びを体いっぱい表した。
昭和54年 第61回全国高校野球選手権大会茨城大会の準決勝第二試合の水戸県営球場!
第2シードの土浦日大に6-2で勝利した。
ノーシードながら5試合 40イニング無失点のエース吉田を擁して,初回に無失点記録は途絶えたものの強打の日大打線を2点に抑え,事実上の決勝戦と目された試合は母校が4年ぶりに決勝へ駒を進めた。
 「竜一吉田 本物だ!」
翌日のスポーツ新聞のトップ記事で大きくエース吉田さんの写真が掲載されました。

それは青年監督 持丸先生(当時31歳)にとっても初めての決勝進出でありました。
この時,誰もが竜ケ崎一高8度目の甲子園出場を思い描いたことでしょう。
しかし,それは11年後の平成2年まで待たなければならなかった。

第61回茨城大会は,開会式が雨で流れるというスタート!
参加83校のフィナーレも“異変”で幕を閉じた。
雨で1日延びた7月15日,水戸県営球場,常陽銀行球場,日立市民球場,土浦市営球場の4球場で一斉に開幕した。
1回戦,屈指の好カードと騒がれた竜一VS大宮戦は8回コールド勝ち,2回戦は第3シードの太田一高を破り,順当に決勝までコマを進めました。
一方,開校3年目の明野高校も夏の大会 念願の1勝をあげて2回戦進出を決めた。
この開校3年目の明野高校。夏の大会で初勝利の高校とよもや決勝で戦うことになるとは想像もしていませんでした。

当時,私は2年生でベンチ入りもしていませんでしたが,チームと帯同させていただき行動を共にしていました。
その時代は,まだ高速道路もなく水戸や日立へは慢性的に渋滞している国道6号線を北上するしかありませんでした。したがって,勝ち上がって試合の間隔が詰まってくると,日立はもちろん水戸でも旅館に宿泊して試合に臨んでいました。そういう意味では,当時はかなりの費用がかかったと思います。

宿舎に戻り,ミーティングが終わり監督いなくなると誰からともなく,明日の優勝を決めた瞬間に誰と抱き合うかで盛り上がっていたことを想いだします。
運命の決勝戦は,期間中の雨天順延もあり予定より1日ずれて27日,龍ケ崎市では八坂祇園祭の最終日!
4年前 私が中学生に上がった年,関口投手を擁して今後も破られることはないであろう54イニング無失点の大会記録で優勝!
その夜オープンカーに乗って市内の商店街をパレードした先輩方は、まさしくスターでした。
あとで聞いたのですが,当時は優勝後,そのまま茨城県庁を表敬訪問し,県庁から6号国道をひたすら南下して龍ケ崎までパレードをしてきたそうです。
 いい時代だったんですね!
私の中で「R」のユニフォームへのあこがれは,その時から始まり,その光景がフラッシュバックし,今日はそうなるのだと勝手に思っていました。

竜一 吉田 明野 斉藤の両サウスポーの投げ合いで始まった試合は,終わってみれば,2回の裏の明野の攻撃が試合の流れを決めてしまった。
連打で一死1.2塁。次打者は2年生の7番打者。
先制のチャンスに両校ベンチの1球ごとに作戦の読み合い!
 1-1(ワンエンドワン)からの3球目。
強振した打球は,先制点を阻止しようと前よりに守っていた間を抜かれ,先制の2点タイムリー2塁打。
結果的に,この2点が重くのし掛かった。試合後の持丸監督のコメントでも,この時の守備位置について悔やんでいた。
試合は斉藤投手のカーブに手こずり最後まで攻略できなかった。
当時は,前年から翌年まで夏の大会で負けた試合は,いずれも3-2で負けている。
選手の間では,「魔の点差」とも呼ばれていた。
戦前から竜一が有利とされた試合,8度目の甲子園出場はあと一歩で叶わなかった。

スタンドには,勝利のとき使われるはずだったテープだけが取り残されたように置かれていた。

試合終了のサイレンが鳴り響く

※当時の写真ではありません

学校に戻り正面玄関の前で,持丸監督から3年生に向けて最後の言葉があった。
 「もう少し監督の頭が良かったら勝たせてあげられたのに,申し訳なかった」
勝てば選手のおかげ,負ければ監督の責任,当時,夏の敗退後は必ずこう締めくくっていたことを忘れない。

全試合,懸命に応援してくれた応援団と共に最後の校歌を歌う!

「竜ケ崎一高~ 来年の健闘を祈って~こ~かー5ばーん」


第6回 高32回 福嶋規子さん「石段登る六十余」

石段登る六十余

 石段登る六十余 ・・・・・・「何で石段練習?私達バドミントン部だよね。」
 一足ごとに踏みかため ・・・・・・「今,足じゃなく手だけどね。」
 心を鍛え身を練りて ・・・・・・「先輩,心折れそうです。」
 忠良有為の基たてん ・・・・・・「忠良有為て,何々だあ?」

これは,誰もが知っている竜ヶ崎一高の校歌5番の歌詞である。

部活動の思い出で真っ先に思い浮かんだ光景が,石段と坂道での練習。
そして,頭の中で流れる5番の歌詞。
その歌詞にツッコミを入れている私の心の叫びである。

入学当初は,旧体育館だけ。室内でシャトルを使った練習は限られていました。
坂道ダッシュ,坂道フットワーク,石段の上り下り,最後の仕上げは外での筋トレ。 ストイックな先輩方は,外練もけっして手を抜きません。
黙々と走る,何度も走る,弱音を吐かない,疲れを見せない。
 「先輩!! なぜ,そんなに外練に燃えていたんですか?」

「今日は外練やりたくないなあ。サボって帰っちゃおう。」
そう思っても外練が始まったら,もうアウト!!
なんせ,自転車で坂道通らないと帰れないもんね。
しかたなく,着替えて練習に。 今日も 校歌5番が 何度も何度も 頭の中に流れるのです。
校歌5番のBGMは,1年以上続きました。

バドミントン部同期の部員は男女4人ずつ。初心者がほとんどです。
きつい外練を一緒に経験したからなのか,卒業してからも同期のつながりは続いています。
社会人になっても 結婚しても 子どもが生まれても
集まれば,遠い昔の自分に戻ります。

 私にとって部活動は 「心を鍛え身を練る」場というよりも
「昔の自分に無条件に立ち戻れる」場をつくってくれたと感じています。

  今も,石段や坂道練習あるのかなぁ・・・・・・・?


第5回 高47回 中島迂生さん「竜一点描」

昔、母校である竜ヶ崎一高を卒業するとき、中島迂生がノートに書き残していった小品。
高校での日々のちょっとした思い出や、先生たちの言葉などについてまとめたものです。
当時、色んな方からあたたかい感想をいただきました。
個人名を記さなかったから、数年もたてば、誰のことを書いたのか分からなくなってしまうだろう。
でも仕方ない、それでもいいと思っていました。
が、意外にもいまでも覚えてくださっている方がけっこういて、うれしい限りです。
ここに登場する当時の先生方や生徒を知らない読者の方も、読み物として楽しんでいただければ幸いです。

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竜一点描  

~母校に捧ぐ~

「すると、チップスは答えた。
『ところがね、誰も覚えてる者はいない。すくなくとも、ここではね。
生徒は入学しては卒業して行ってしまって、いつも新顔だ。
だから思い出だって、長続きしないんです。
先生にしたところが生涯ここにいるわけではなしね。…』」
 -ジェームズ・ヒルトン<チップス先生さようなら> 

そこにいるときは当たり前で、
去ってしまってはもう思い出されることもない、
平凡な日常。

黒板の溝にたまったチョークの粉。
右端に書きつけてある週番の評-
不可、窓、ロッカー。

朝の竜鉄のけたたましいベル。
うしろの車両の窓ごしに眺める出勤風景-
駅の階段に駈けこんでいく会社員たち。

般若時の老桜。

窓から吹きそよぐ風、眠たげな午後の授業。
ぼんやり外を眺めていると、 校門から入ってくる車の陽光にかがやく屋根を、
こずえの影がなめらかにすべってゆく。
<ドライビング・ミス・デイジー>の
ワンシーンのように。

いつも書き順の変わらない、
極端に簡略化された世界地図。
黒板をとび交う点線。
野球についての雑談で授業を一時間つぶすときも、
暗黒の火曜日のニューヨーク市場大暴落が
世界に及ぼした影響について話すときと変わらない真剣さ。

レモン爆弾。

阿部昭の息子が小学生のときにつけた日記より、抜粋。
「きみのことを あいしてんだ。すきだ。
にじくん あいしてる。ほんとだ。
ゆるしてくださいね。」

「えびいも」についてのイラストつきの説明。
旅行先で見た夜明けの空の色の話。
どこそこの何村でやっている何とか祭り。
古事記に載っている何とかミコトについて。
ヘンゼルとグレーテルの原話に関する民俗学的考察。
近藤芳美の短歌によせる恋愛礼賛。
家庭内暴力の一歩手前だった高校時代。
「幸い僕んちには金属バットがなかったんで、大事には至らないで済んだんですが…」

予習に励む級友たちの傍らで ぼんやりすごす昼休み。
うしろの黒板の落書き。
辞書だの、予備校の雑誌だので溢れた棚、
その上にずらりと並んだジュースの空き缶。

職員室の談笑。

一度に一人ずつしか通れない手狭さ、
あっちこっちに積まれた模試のダンボール箱。
机の上には参考書にテストの答案、
旅行のお土産に子供の写真、
ホームルームの通達事項のメモに ダニエル・キイスの小説。

フラスコやら試験管立てやらが置かれた、
理科室のほこりっぽい窓辺。
窓いっぱいに枝を広げたヒマラヤ杉のみどり色。   

   白い坂道が 空まで続いていた
      ゆらゆら 陽炎が あの子を包む
      誰も気づかずただひとり あの子は昇ってゆく
      何も恐れない そして 舞い上がる
      空にあこがれて 空を駆けてゆく
      あの子のいのちは ひこうき雲…
      -荒井由実<ひこうき雲>

晴れた日には<ひこうき雲>を、
雨の日には<ベルベット・イースター>を
うたいながらペダルを踏んだ
学校までの長い長い道のり。

初夏の樫の木のペパーミント・グリーン。
こがねのつぶをちりばめたハリエニシダ。
にせアカシアの象牙色の花房。

帰りの竜鉄を待つ間に立ち読みした本-
カフカの<変身>、ドストエフスキーの<貧しき人々>、
リンドバーグ夫人<海からの贈り物>。

六月の窓辺。
雨に煙る木立の、ますます色濃くなりゆくみどりのなかに、
しみるようにあざやかな 満開のさるすべり。
休みない雨音。虚空をとぶ鳥影。
メタセコイアの植込みによせてとめられた
銀色のアコード。

ぬれたアスファルトの上で回転する
色とりどりの傘。

学年だよりのプリントの裏に書きなぐった
ベクトルの図形。

奥さんと喧嘩した話。
ななちゃんが幼稚園行かないと言って駄々をこねた話。
李白ばりの飲酒哲学。

朝の立哨指導。
いまだに解けぬ難問-校門のところに5人も立っていられるとき、
どうやったら自転車で通りすぎる間に5回会釈できるか?

「なんにもしてこなかったって言われてるけど、社会党は、ただいるだけで40年も憲法を守ってきたんだぞ。こりゃあすごいことだって。自民党はアメリカの言うことを聞きたいんだが、左翼がうるさいんでできないできたんだな。女房がうるさいからって口実つけてさっさと帰る会社員みたいなもんだ」

「あのゴルバチョフってよう、共産党はだめだっつったわけじゃないんだよな。悪いところをちょっと直そうとしたら、結局、組織全体がぶっ壊れちゃったんだわ」

「おいこら、そこの人、わたしがせっかく喋ってんだから寝てんじゃねえよ。おいっ、そこ、誰か起こしてやれよ。ったく…」

高く低く語られるその声の調子、
気づかないうりに眠りにおちてゆく心地よさ。

お好み焼きをひっくり返して終わった二日間。

スポットライト。舞台の静止-独白。
「よく、本を見ると、『神さま、助けてください』って書いてあります。
わたしは、『神さま』って奴を見たこともないし、会ったこともありません。
-でも、やっぱり、神さま、助けて、く、だ、さ、い。」 トッカータとフーガ。暗転。
 (萩尾望都・野田秀樹<半神>の舞台より)

忘れもせぬあのすさまじい夏、
よくぞ生きて通過した。
居眠りもままならない淀んだ空気、
一日中、無気力にパタパタやっている うちわや下敷き。
はだしにサンダルで授業しにいく後ろ姿-
ため息まじりに、
「みんな、予習やってこいよな。でないと、砂漠にじょうろで水まいてるのと同じようなことになっちゃうから」

体育館の屋根をゆるがすコンバット・マーチ。
赤いメガホンにチューリップ帽。
焼けつく日差し-ひと夏のおわり。

人気のないプールサイドの拡声器から流れる
<ハロー・マイ・フレンド>。   

   悲しくて
    悲しくて
    かえりみち さがした
      もう二度と会えなくても
      ともだちと呼ばせて …
      -松任谷由実<Hello my friend>

石段のぼる六十余。
   石段おりる六十余。
おりる時の方がもっとこわい。

嵐のように黒板を打ちたたく棒。
放物線y2=4px上の点p(x1, y1)における接線の方程式はy1y=2p(x+x1)であることについての丁重なる説明。
ひと呼吸。まばたき。
-「分かったか?」
或る人曰く-「あの先生が『分かったか?』って言うとき、目から磁力みたいなものが発していて、聞かれた人に必ず『はい』って言わせるんだよね。もっとも、野球部の連中にだけは効かないけど」

公式の覚え方を考え出すことにかける情熱-
「俺は昨日これを考えるのに30分かかった」

顧問の先生と喧嘩して、
試合に負けた高校時代の思い出。

歩くたびにギシギシなる教壇。
課外の申し込み用紙で折った紙ヒコーキ。

「その当時の生徒たちのいくつかの名前が、後年合唱の一節のようになって何の苦労もなく思い浮かぶのであったが…
『エインズワース、アトウッド、エイヴォンモア、バブコック、バッグズ、バーナード…』
(中略)
その生徒たちは皆何処へ行ったのだろう。彼はよくそんなことを考えた。嘗てこの手でしっかり握っていた彼らを繋ぐ糸はどこまで伸びて、散り散りになってしまったのだろう。…」
-ジェームズ・ヒルトン<チップス先生さようなら>

ぬれたアスファルトに散らばった
黄色い木の葉。

自転車を自転車置き場から引き出して、
放課後の空気の中へ踏み出していく感じや、
階段を小走りに駆けおりながら
ふと眺めやる窓の外の景色。

写真部の白黒写真のポスター。
階段にふき溜まったほこり。
ロッカーの底に忘れられた夏の雑誌。

「そのとき、鄧小平が日本を訪問して、まず田中の家に出向いたんだな。そして言ったの、『私たちは最初に井戸を掘った人のことを忘れない』、日中関係の改善の糸口をつくったのは田中だから、どんなに悪いことをしても、私たちは田中を尊敬しますって」

「マッカーサーは、中国まで攻めて、原爆落としてもいいから共産党をつぶすつもりだったんだ。そのとき、ちょっと来い…って、マッカーサーを呼び戻してクビにしたのがこの人、トルーマン。当時は能なしってバカにされていたんだが、後になって評価が高まったんだ。平和を守った立派な人だったって」

「所得倍増計画ってのをやったのがこの人のとき。あれはわたしも信じてなかったなあ。池田勇人って、佐藤栄作と仲悪かったんだよな。だけど、池田はガンになって引退するとき、日本の将来のことを考えて、次期総理に佐藤を指名したんだ」

星垂レテ平野闊ク 月湧キテ大江流ル。

「みんなは、生きてると思ってますか。周りとは関係なく、一人で生きてると思ってるかもしれません。でも、こう考えたことはないですか-生かされてるって。みんなは勉強させられてるんじゃないんです。勉強させていただいてるんですよ。させていただくっていうこの気持ち、奉仕の心ですよ」

雨の球技会、つれづれなるままに、
体育館のボロピアノで弾いてきかせた ショパンのエチュード。

寡黙なサッカー。
芸術的なバスケットボール。
体育館の階段に腰を下ろして 雑談と休憩とポカリスエット。

水色のTシャツの背番号-cos60° 1 / 2

実行委員長の挨拶。
「本日は、外を見ればお分かりのように雨になってしまいましたが、-これはすべて僕の責任です。(哄笑…) というのはですね、さっきお母さんから電話がかかってきて(哄笑…)、僕が昨日作って吊るしておいたてるてる坊主が逆さまになっちゃってるって言うんですよ。(哄笑…)だからこれはすべて、僕がうっかりてるてる坊主を逆さまに吊るしてしまったせいです。皆さん、どうもすいませんでした。(哄笑…) だけど、まあ、結構盛り上がったし、一応成功したって言えるんじゃないですか…」

パリ不戦条約について、帷幄上奏について、時の総理大臣について、云々。

「そう言えば、僕の親爺って非常に怒りっぽい人だったんだよなあ。何だか知らんけど、いっつも怒られてたよ。親父が亡くなる年によ、うちに帰ったんだわ。そしたら、親戚が見舞いに来たんで上がってもらって、-親爺向こうの部屋で寝てたんだけど、-墓石どうすっぺかーなんて話してたらよ、親爺に聞こえちゃって、また怒られたわ」

「しかしなあ、若い頃は愛だの恋だのって、命懸けみてえに言うんだよな。何なんだろうなあれは。わたしはよ、結婚した当時は世界で一番いい人と結婚したと思ってたけど、今じゃ、女房以外の人となら誰とでも合いそうな気がするよ」

「うちにもみんなと同じ年のせがれがいるんだけど、わたしがいろいろ話してやろうとすると、せがれ怒るんだよな。んな話聞きたくないって。だからわたし言ってやったんだよ。いいよ、学校で話すからって。みんなならいくらでも聞いてくれるもんなあ。授業なんかより、こういう話なんかの方が大切なんだぞ。だって、授業なんて誰でもできるんだから。みんなもよう、たまにはお父さんの話聞いてやれよ。みんなのお父さんだって結構いいこと言ってるんだぞ、きっと」

旧体育館の色褪せた赤い屋根と、
その向こうにそよぐ二本のポプラ。
ベニヤ板に大書した注意書-
「屋根落下のため、危険につき、立入厳禁」

言語の性質についての論理的説明。
ソシュールの「記号の恣意性」。
小さい頃ごっちゃに覚えていたことば-
まかないとまいない、なかんずくとかんなくず、
フライ返しとしっぺ返し。

黒板に書きつける英文に、
ときどき筆記体がまじる。
握りこぶしの底面で書き損じを消すときの仕草。
桟橋につないだ小舟をゆらす 波のようなその声の調子。
黒ぶちのめがね。 しょっちゅう故障したテープレコーダー。

「さっき、こないだの模試の結果がきてたのを見てきたんだが、-ひどいなああれは。
胸が痛いっていうのは単なる表現上の言いまわしかと思ってたけど、さっきあれを見てたら本当に胸が痛かったよ」

図書館での勉強-
関係ない本に読みふけってしまって、
いつも失敗に終わった企て。

十月のしずかな曇り空、
青みがかった、
大理石のような陰影のある曇り空。
ねこじゃらしと小豆色のちからしば、
伸びきって立ち枯れたよもぎのアラベスク。 しろざ、かぜくさ、われもこう。

「失われた世界。
それはいずれ永久に失われてしまうだろう、
とふと思いあたって、彼の胸は痛む。
これまで自分の身に起こったいっさいのことを、少年は忘れてしまうだろう。 あとにはある種の余韻が残るだけだろう。
いや、それさえ残らないかもしれない。
生まれてからの三年間に、A(=この少年の父親である書き手、引用者注)が彼とともに過ごした何千時間、彼に向かって発した何百万語、彼に読んでやった本、彼に作ってやった食事、拭いてやった涙-
それもみな永久に、少年の記憶から消えてしまうだろう」  
-ポール・オースター<孤独の発明>

岩をうがつ水のように、日々受けてきたもの、
毎日の授業-分詞構文の作り方とか、
余弦定理とか、
「給ふ」の活用形の見分け方だとか、
気づかいとか、心配とか、
苦しいジョークとか、
勉強と人生についての説教だとか、
してもらったことさえ知らない、
かずかずの面倒な雑務とか。
ただ、三つの子供ではないからというだけで、
こうしたことがらの、
せめて余韻だけでも ずっと持ちつづけられるという保証はあるのだろうか?

廊下のつきあたりの窓から
舞いこんでくるけやきの赤茶色の葉。
下を歩いていく人の頭。
階段で交わす挨拶、
やたら水のとび散る水道の流し。

画鋲でとめた掲示物、
そうじ当番表に奨学金の申し込み、
イディオムの小テストの結果に添えて
「檄をとば」したコメント。

ウンテル・デル・リンデンの賑やかなざわめき。
…自我の覚醒…産みの苦しみ…
…挫折と絶望…悲劇の出会い…
夕暮れの裏通り、顔を上げた瞬間の、
忘れ得ぬあの碧い瞳。
…変わっていく周囲…
…変わっていく自分…
朝の珈琲。ハイネの詩集。辻馬車の蹄の響き。
…弱い自分…流されていく自分…
…すさまじい内的葛藤…苦悩…
ブランデルブルク門のガス燈の光。
虚空にひびく叫び- 「わが豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか!」

かすんでゆく空の色。
冷たい西風が吹きだす季節。

窓の外に目をやって-
「今日は風が強いですねえ。大風が吹くのはどうしてだか、知ってますか。-大風が吹くのはね、ネコバスが通るからなんですよ。俺、あれ十回くらい見たよ。娘につきあわされてだけど。名作ですねえ、となりのトトロ。まだ見てない人は、ビデオ借りてぜひ見てくださいよ。おいおい、それくらいの心のゆとりは持てよ」

文学史の課外授業。
新思潮派の作家の覚え方。

階段の踊り場に掲げられた激励のことば。
あと一歩
あと一歩ほど大切なものはない

… 授業終了のベル。
一斉に席を立つときの机の音。
ストーブの前で湯気をたてているやかん。
陽光のふり注ぐ渡り廊下。

「みんな、今がいちばん苦しいと思ってるかもしれないけど、これから先の人生で苦しいことはもっとありますからね。みんなは今まで挫折を経験したことがないから、大学に受からなければ世界が終わり、みたいに考えてるけど、やる気さえあれば必ず道は開けるんです。俺なんか二年も浪人したからね。全然こわくないよ。それでもこうやって道を得て、喰わせてもらってる。自分で喰ってるとは思ってないよ。みんなに喰わせてもらってると思ってる。そういう謙虚さは持ってるんだ、俺は。」

「言っときますが、大学では、東大に如くものはありませんからね。あとはみんな一緒だ。大学出てからは、早稲田だろうが、その辺の名もない大学だろうが、関係ありません。問題なのは人間性ですよ。みんなは二十一世紀のリーダーとなる人たちだから、将来、高いポジションに就く人も多いでしょう。でも、部下を抱えるようになると、人が物にしか見えなくなることもあるからね。うちの教室にも書いといたけど、人の痛みの分かる人間になってくださいよ。-それから、あとは、がんばって合格してくださいよ、ね」

受験勉強も佳境に入った二月半ば、
小論文の練習で幽玄論を書いた。
花はさかりを、月は隈なきをのみ見るものかは。
月のことばかりずっと考えていたせいか、
月の夢を見た。
まわりの雲を美しい青色に染めて光る
大きな月を、夜汽車の窓から
ガタゴト、ガタゴト、ゆられながら、
いつまでも眺めていた夢。
その映像が、目に焼きついて離れない。

試験休み。
がらんとした廊下。
からっぽの教室。

小雨にぬれる帰り道、
ペダルを踏んで走り過ぎるとき、
一瞬目に入った
咲きそめの梅の大枝。
ほんの一瞬-一過性の美。
ラジオから、ふと耳にした
曲名も知らない曲のような。

雪の卒業式。
「無情な時の流れは僕たちを運び…」
心はまだ卒業できなくて、
ベランダの手すりあたりにひっかかったまま、
毎日眺めてきた同じ風景を眺めている。

ざわめき。握手。おしゃべり。
花束。記念写真。白のネクタイ。
履き古しの上履きを山と積んだ手押し車。

締めくくり-今日この日まで、
頭の中でずっと流れつづけてきたこの曲。

   淡き光立つにわか雨
      いとし面影の沈丁花
      あふるる涙の蕾から
      ひとつひとつ 香り始める
            それは それは 空を越えて
            やがて やがて 迎えにくる
      春よ 遠き春よ
      まぶた閉じれば そこに
      愛をくれし君の
      なつかしき声がする

   君にあずけしわが心は
      今でも返事を待っています
      どれほど月日が流れても
      ずっとずっと待っています
            それは それは 明日を越えて
            いつか いつか きっと届く
      春よ まだ見ぬ春
      迷い立ちどまるとき
      夢をくれし君の
      まなざしが肩を抱く

   夢よ 浅き夢よ
      わたしはここにいます
      君をおもいながら
      ひとり歩いています
      流るる雨の如く
             -松任谷由実<春よ、来い>

竜一点描・おわり

雪景色

第4回 高29回 荒井 久仁夫さん「竜ヶ崎一高時代の思い出」

卓球部

 今年で還暦を迎える私にとって、中学校から高校、大学までの10年間通して経験した部活動「卓球」は、社会人としてその後の人生を歩んでいくうえで大きな礎となっている。

恩師の大野英二先生や齊藤佳郎先生の支えの下、多くの先輩、後輩、同僚と出会い苦楽を共にした。また勝負の世界での経験も若く未熟であった当時の自分を磨き鍛えてくれた。人として成長させてくれた部活動「卓球」にはとにかく感謝したい。

特に竜ヶ崎一高校での部活動「卓球」は、喜びと挫折を経験し、今でも記憶に残っている。正直に言うと、喜びより挫折感の方がはるかに上回っていて、思い出として語るには今でも躊躇するぐらいだ。

中学生の時、卓球で県大会個人戦ベスト16と、そこそこの成績を残した私は、もっと上手になりたい一心で竜ヶ崎一高に進学した。当時の竜ヶ崎一高卓球部は、中学校時代に全国大会に出場していた高山さんや沼崎さんなど憧れの先輩方が名を連ね、県下でも常に優勝を狙える強豪校であった。入部した昭和49年の春、卓球練習場は当時まだ残っていた講堂の隣にあった古い木造校舎の中にあり、卓球台4台で練習していた。部員は3年生と2年生の上級生が8人で、1年生は私を含め5人。みんな中学校からの顔馴染みで、県大会個人戦で優勝した諸岡や広瀬、篠田も入部し、仲間として一緒に卓球ができる喜びと高揚感でいっぱいであった。

入学式が終わって間もなくの4月中旬、挨拶を兼ねて初めて練習場に入ったが、そこには挨拶ができる雰囲気はなかった。激しく打ち合う上級生8人の気迫のこもった練習に圧倒された。関東大会とインターハイの予選を兼ねた県大会が間近に迫っていて、県代表を目指した猛練習が既に始まっていた。豊嶋佳男(故人)氏らOBの先輩方が見守る中、自分を鼓舞し、少しでも気を抜いたポールを打とうものなら容赦なく相手に罵声を浴びせる。卓球伝統校のすさまじさをまざまざと見せつけられた。その年は、期待どおり地元茨城県鉾田市で行われた関東大会本戦と福岡県博多で行われたインターハイの団体代表となった。上級生は個人戦でも代表になっていた。竜ヶ崎一高卓球部の一員であることを誇らしく思っていた当時の自分を思い出す。博多インターハイには、鈍行列車(上級生は新幹線と特急電車)に乗って丸一日かけて行き、1年生で唯一ベンチに入ることもできた。団体戦の結果は1回戦で兵庫県の三田学園高校に3対4で惜敗したが、全国レベルの数多くの試合を見ることができた。喜びと充実感あふれる一年を過ごすことができた。先輩方には本当に感謝である。  

その実績を引き継いで自分は2年生になり、再び関東大会とインターハイ出場を目 指した厳しい練習が始まった。インターハイメンバーが3年生で3人(野口さん、山本 さん、杉田さん)残り、自分をはじめ2年生も力をつけていたので、先生方やOBの先 輩方からは前年同様大きな期待が寄せられていた。  

そのインターハイ予選の県大会は、準決勝で強豪鉾田一高との激闘を制し、磯原 高校との決勝戦となった。我々の準決勝の終了時刻が遅くなったため、決勝は翌日 に行うという大会本部からの話が一時あったが、それが一転、急遽その日のうちに行 われることになった。時計は夜8時を回っていたと思う。会場に残っていたのは、ほぼ 決勝に残った両校の選手と関係者だけで、試合内容もまさしく死闘となった。1ダブル ス6シングルスの試合構成で4試合を先に勝利した方が優勝となる。結果から申し上 げると、本当に悔しい思い出だが私が負けて敗戦となった。その試合相手は「カットマ ン」といわれるタイプで、相手の攻撃をカットで粘って相手コートに返し、たまに意表を ついての攻めを混ぜながら、相手のミスを誘い、勝ち切る戦型であった。第1セットは スマッシュが決まり、相手のカットミスも続いて先取した。しかし、第2セットからは相手 が自分のボールに徐々に慣れ、粘り強く返された。勝ちを意識して焦り、自分の打ち ミスも多くなった。途中から促進ルール(サーブを持った方がラリー13回以内に得点 を決めきれないと相手方の得点になる。)が適用され、流れが相手有利に変わった。 この第2セットを失うと、そのまま第3セットも苦しい試合展開となり、最後は相手が返 球したカットボールがエッジボール(卓球台の角にあたって得点となる。)となり試合 終了。思わず天を仰いだ。相手のことは十分研究して臨んだが、粘り負け。先輩にも 後輩にも申し訳がなく、涙の敗戦であった。  

3年生になり私は主将としてチームをまとめ、伝統校の誇りと名誉を背負う立場と なった。もちろん関東大会やインターハイに出場するという結果を出すことが求めら れた。同輩や後輩と思いを一にして必死に練習を積み重ねた。OBの諸先輩方も練 習場に足を運んでくれ期待されていたが、結果はともに準決勝で敗退した。私が勝て ばチームは勝利の目もあったが、相手校のエースに完膚なきまでにしてやられた。完 敗であった。これで竜ヶ崎一高での3年間の部活動卓球は終わったが、卓球との関 わりはその後の大学生まで続いた。同じように悔しく辛い思い出もあるが、関東学生 リーグ団体戦での勝利や、個人戦で東京都予選を通過した試合、負けはしたが当時 関東学生でも実力上位の選手と接戦を演じた試合など、充実した卓球生活を送るこ とができた。  

年に一度ではあるが、ここ数年、家族とともに東京都港区で行われている関東学生 卓球リーグ戦を見に行くようになった。母校の応援を兼ねて行くのだが、校歌を歌っ た後、自校の勝利のため必死に戦い躍動する学生たち、またベンチで全員一丸とな って応援する学生たちの姿がまぶしく、いまだに心躍るものを感じる。元気をもらって いる。日本の卓球界も楽しみだ。男子は中学生の張本選手、女子は高校生の伊藤 選手、平野選手が世界チャンピオンの中国選手に勝利するなど、世界で活躍してい る。平成31年には45年ぶりに茨城県で国体が開催される。ラグビーワールドカップ も同時期に開催される。そして、その翌年の東京オリンピック・パラリンピックへと続 く。日本中がスポーツの祭典で盛り上がることであろう。

私は公務員で今年で一つの節目を迎えるが、これまで心の支えとなっていたのは、 やはり中学、高校、大学までやり遂げた卓球の経験である。今でも卓球にかかわり、 中高校生の育成や卓球を愛する人たちに楽しんでもらう役割を担わせてもらってい る。これからも卓球を通して出会い知り合うたくさんの方々とともに、卓球というスポー ツを大切にして楽しんでいきたい。それを可能にしてくれた卓球には本当に感謝、感謝である。


第3回 高31回 小川 隆司さん「40年前の我が射撃部」

射撃部

竜ヶ崎第一高等学校 2003年学校案内 より抜粋

毎年届く白幡同窓会会報には、射撃部の後輩たちが活躍する記事が掲載され、射撃部のOBとしてちょっと誇らしく思っていました。 私と射撃部との出会いは41年前に竜一に入学して間もない頃、席が後ろの友人に誘われたのがきっかけでした。新入生への部活動紹介で説明を受けていたはずでしたが、あまり記憶に残っておらず、友人に誘われなければ存在すら忘れていた部活動でした。

入部当時の射撃部は3年生の先輩が2名しかおらず、1年生の我々が入部して、やっと4名が部員の部活動でした。人数が少なかったせいか、アットホームな部活動で先輩たちからしごかれた記憶は全くありません。

当時の高校射撃競技は全国的にもマイナーな競技で茨城県内での部活動として活動する高校は、竜一と真壁高校の2校のみだったと記憶しています。試合は県大会、関東大会、全国大会で、そのすべての大会に予選はなく、1年生の我々も射撃を初めて数か月で県大会に参加していました。結果は当然、惨たんたる結果でした。予選が無かった全国大会は毎年インターハイの開催地区の近辺で開催され、1年生では長野県の軽井沢、2年生が山口県の宇部市、3年生の時は福島県の会津磐梯高原で開催されました。おかげで、生まれて初めての新幹線も全国大会への参加でした。

ただ、マイナーな競技ではありましたが、使用するのはライフル銃です。競技用の空気銃でしたが所持許可証が必要になります。自分が1年生の全国大会に竜一が持ち込んだライフル銃は所持許可証が前年に卒業したOB名義を変更していなかったために大会での使用が認められず、急きょ同県の真壁高校から借用したライフル銃で大会に臨みました。1年生の我々にとっては参加するだけの試合でしたが、3年生の先輩にとっては悔いが残った試合だったと思います。当時の高校の射撃競技は空気銃を利用し立った姿勢で競技する立射式を1シリーズ10発の4シリーズの合計点を競う競技で、実弾を利用しないビームライフルを利用した種目は、我々が3年生の全国大会で初めて銃と設備が会場に持ち込まれ、テスト的に実施されていました。

1年生の全国大会が終了し3年生が引退した後に自分たち以外の1年生の部員も入部し、2年生になってからは、毎年新入生の部員を迎え部員数も入部当時の4人に比べれば、それなりの人数を抱える部活動になりました。しかし、当時の射撃部には十分な知識を持った指導者が存在せず、先輩からの教えと自分たちなりに工夫した練習を積み重ねるのが精一杯で、大会でも成果を残すことはできませんでした。それでも自分たちが3年生の時に迎えた新入生が3年生になった年の全国大会の団体戦で準優勝したことを新聞で見たときは自分のことのようにうれしかったと記憶しております。

射撃部

竜ヶ崎第一高等学校 2014年学校案内 より抜粋

3年間の部活動の中で、関東大会や全国大会は当時の顧問の鈴木武次先生が運転する自家用車での移動することが多く、遠方の開催地で同じ宿に宿泊して試合に臨みました。鈴木先生は数学を担当されていましたが、私が授業を受けたのは3年生のときのみで、部活動の顧問として関係が長く、高校時代の恩師とし一番に思い浮かぶのは間違い無く鈴木先生です。しかし先生とは高校を卒業してからはお会いする機会がなく、クラス会で会う地元に残る友人に先生の様子を伺うたびに、今度一緒にごあいさつに行こうと話をしていましたが、今回の原稿の依頼を受ける中で、亡くなられたことを伺った時には、どうしてもっと早く行動しなかった大変後悔しました。この場を借りて鈴木武次先生のごめいふくをお祈りいたします。

自分にとっての高校時代の射撃部での生活は高校生活の一部に過ぎませんが、その時間は一番の思い出であり、かけがえのない存在だった気がします。

また、機会があれば、現役の射撃部の後輩たちにあってみたいと思います。


第2回 高20回 郡司 孝夫さん -「弁論部」と言うクラブが有った事 -

弁論部1

竜一・竜二共催 第二十回県下高校弁論大会
我々の時代(昭和43年頃)も弁論大会は、講堂で行っておりました、分かりにくいかも知れませんが、写真は竜一の講堂の写真です。
      昭和44年5月25日

今年の4月、卒業50年を経た、高校20回卒業の我々に「白幡同窓会総会」への招待状が届き、懐かしい母校に足を運びました。我々が在学していた頃の面影はなく、在校生の皆さんも、どことなく上品な感じで、とても我々の頃の野暮ったい雰囲気などなく、他校に来たような、腰の落ち付かない気持ちでした。

我々の在学当時の校舎は、明治36年に建てられた木造校舎で、四棟横並びに建てられており、正面の校舎だけ二階建て。正面の玄関の真ん前に二階に上がる幅の広い階段がくの字にあり、一階は事務室、職員室、校長室などで、二階は三年生の教室、二棟目は、二年生の教室、三棟目は、二年生と一年生の一部、四棟目は、物理・化学(通称物化室)の階段教室、そして先生の部屋。中廊下を隔てて、生物・地学の階段教室と先生の部屋が有りました。四棟の真ん中を、各棟を繋ぐための通路が有り、その通路は、中庭と同じ高さのコンクリート敷きだったため、物理の時間、生物の時間などの時は、何回もステップを上がり降りして行かなければなりませんでした。

授業の開始時、終了時には、小使いのオジサンが、小使い室の脇に据え付けられているサイレンを鳴らします。そのサイレンの音と、裏にある東洋運搬機の工場のサイレンの音が同じだったため、四時間目の終了時間より10早く鳴る東洋運搬機のサイレンの音に、「先生、授業終わりです。」言う者がおり、勘違いした先生が「あれ?少し短い気がするなあ。」と言い、早く授業を終わりになった、と言う事も有りました。

私の所属していた弁論部室は、四棟目の物化室でして、階段教室でしたので聴衆を前での演説の練習には丁度よく、又演壇としてのテーブルも科学の実験が出来るように、がっしりとした幅の広い立派なテーブルでしたので、両腕をつき、声を張り上げて演説をすると、結構様になりました。 と書いてきますと、毎日真面目に練習をしていたかと言うと、ほとんど練習をしませんでした。授業が終わると、カバンを肩にひっかけて部室に向かう、重い扉を開けて部室に入ると、独特な匂いが鼻を掠める。化学薬品の匂いと、古い木造の木の匂い。

弁論部2

既に何人か階段の机に座っており、雑談をしている。「おう」と言ってその輪に加わって、その話の中に入り話をする、と言うのが毎日の練習でした。話の内容は、文学論だったり、映画評論だったり、哲学論だったり、時代が丁度、早稲田大学の学費値上げ反対から端を発した、学生運動が始まった頃でしたから、政治の問題も侃々諤々論じ合いました。右寄りな考えを持った者、左掛かった考えを持った者、両方おりましたが、皆仲良く、先輩後輩の隔たりはなく、皆同等でした。気が付くと外は暗くなっており、「そろそろ帰るか。」でその日の練習は終わり、と言う感じの毎日でした。

でも、一週間に一回位は練習をしました。階段教室の外側をぐるっと巻き、まず、腹筋を鍛える発声「あっぷ!あっぷ!あっぷ!・・・」と5分位行い、次に、滑舌を良くするための練習「あ・え・い・う・え・い・あ・お」そして練習弁論「ペンは剣よりも強し、されどペンは、ペンの生きる道が有って、初めてペンは剣よりも強いので有ります。」など、多分東大か早稲田大学雄弁会の練習弁論を拝借したものだと思います。それを声を上げて諳んじ30分程度の練習は終わりになります。

時々は、県内の弁論大会に出場する為に、自分の演説を皆の前で披露し、批評を受けます。
竜一も年に一回、竜一・二高共催の弁論大会を開催致しました。

弁論大会は二種類の弁論を行います。一つは自分の原稿で聞き手に訴える弁論、もう一つは「即興弁論」と言い、課題を出され、3分間考えて3分間自分の考えを披露するものです。当時審査員には、詩人の英美子先生などをお呼びし、審査をして頂きました。

でも、ほとんどは、練習などせず毎日集まっては、取り留めもなく論じ合い、暗くなると帰る、と言う日々を送っておりました。

弁論部の仲間には、ユニークなメンバーが揃っておりました。いつも学帽を斜めに被っており、先生に呼び止められ「帽子は、こう被るんだ。」と言って真っ直ぐに直されると、その前で、直ぐ斜めに被り直す。そして「先生、真っ直ぐと斜めの基準って何度からですか?斜めに被ってはいけないと言う規則はどこに有るんですか?私は、私の美的感覚でこの様に被っているのですが、これは私の主張で有って・・・・」と延々と話し出す。すると先生は、あきれた顔をして「わかった、もう行っていい。」と言う事になります。彼は得意そうな顔をしながら、両手をポケットに突っ込んで、我々の方に戻ってくる。その後彼は、東京の大学に進学し、学生運動に参加するようになりました。

弁論部の連中には係り合うな、屁理屈を捏ねて五月蠅くてしょうがない。校内では、その様に言われ、一種独特な目で見られておりましたが、我々にとっては、それが自慢でもありました。

私の一年の時の夏の終わりの頃、二級上の弁論部の先輩が帰りがけに「郡司、銭湯に入って帰ろう。」と言い、竜ヶ崎駅のそばに有る銭湯に行ったことが有ります。「夏の汗をかいた帰りに、銭湯に入って竜鉄に乗って帰ると、気持ちが良いんだ。」当時の竜鉄は、手でドアを開け閉めしますので、火照った体を、竜鉄のドアを開き、ぶら下がりながら、田んぼに吹き渡る風に身を晒して乗ってゆくのは至福の想いでした。それ以降、時々銭湯に寄って帰るようになりました。

三年の時は、練習の帰りに街中に有るラーメン屋、「白ゆり」に毎日のように通い、カレーラーメンを食べて帰るのが、日課になりました。「白ゆり」は竜ヶ崎二高を卒業した姉妹がお店を切り盛りしており、半分その姉妹が目当てだったかも知れません。「白ゆり」の向かいに、弁論部の一級先輩の家が有り、種苗屋を営んでおり、先輩はその店番をしておりました。まず、先輩の店に顔を出す、すると先輩が「白ゆり」を指指す。我々は「白ゆり」に行って「まさこちゃん、カレーラーメン。」と注文して待っていると、先輩が来ます。先輩は生まれつき心臓が悪く、学校に通う時も、64段の階段を登れず、ゆっくりと休みながら坂道を歩いて登校しておりました。いつも静かに我々の話を聞いておりますが、時々「郡司、今言った事と、この間の話をしていた事と、どう繋がるのかな。」と鋭い質問をしてきました。聡明な方でしたが体が悪いため、大学には進学せず、家業を継いでおりました。「白ゆり」のラーメン代は、いつも先輩の奢りでした。その先輩も二十歳を過ぎたばかりに風邪がもとで他界しました。今でも、透き通るような張りの有る声を思い出します。

何人かの弁論部の仲間が、既に他界しております。

五十年経った今でも、あの弁論部の階段教室の独特の匂いと、窓からさす光、仲間の顔を思い浮かべます。

いつの頃、弁論部が廃部になったかは解りません。でも竜ヶ崎一高に「弁論部」と言うものが存在し、そこで多くの若者が世の中を熱く語り、憂い、希望を持ち、そして、人生を語り、将来へ想いを馳せ三年間を過ごして行った事を、竜ヶ崎一高の歴史として残して置いて欲しいと思い、この記事を書きました。


第1回 高30回 石井 徹さん 「地学部の合宿研修旅行」

合宿

キャンプ場での飯盒炊さん。焦げてもおいしかった白飯。
      昭和50年8月

私たち30回生が期待に胸を膨らませて入学したのは確か昭和50年でしょうか。あれからなんと、もう40数年経ってしまったとは。それでも、当時のことはそれこそ無尽蔵に思い出すことができるのです。何かひとつのエピソード、なんてとても絞り切れない。  

今、真っ先に出てくるのは、地学部での活動にまつわるエトセトラ、でしょうか。 在学中に3年間、OBとなってからも数年参加しました。そう、1年生の時に初めて参加した夏期キャンプ合宿、当たり前のようにOBたちがいらっしゃったのです。  

場所は福島県裏磐梯の曽原湖キャンプ場。大釜や飯盒、食料など大量の荷物を持参し、自分たちで火を起こして調理し、食べ、昼は磐梯山など登山をしながら地形・地質の勉強をし、夜はキャンプファイアでアニメの歌合戦をし(OBたちはハリマオや月光仮面とか...)、 同級生数人で暗闇の散歩、その暗闇でみた蛍の美しさ。  

OBたちから教わったさまざまなこと(書けないこともたくさん!)、合宿最後の晩に食べた闇鍋、行き帰りの列車内での珍事件...   

もちろん普段は地道に、地質調査やら気象天気図の作成やらまじめに活動していましたし、稲敷台地の地層調査で賞をいただいたこともありました。

それでも、あの時のキャンプ、あるいは日帰りでの岩石採集旅行、部室でのラーメンパーティ(ココア塩ラーメンはまずかった...)など、同級生、先輩、後輩がいっしょになって過ごした昭和50年代。本当に、宝石のようにキラキラした3年+α年でした。

白龍祭

白龍祭の打ち上げにて。顧問の伊藤修二先生とOBも混じってますがわかりますか?
      昭和50年11月